基調講演『支援費制度等の福祉施策の展望』宮城県知事 浅野史郎様

宮城県知事 浅野史郎様  皆さんお早うございます。宮城県知事の浅野史郎でございます。
 私のプロフィール、ここに載っているのは、知事のホームページの公式なものですが、私は個人のホームページを持っています。YAHOOで、浅野史郎を検索して貰うと解ります。毎日の様に更新していますので、面白いですからご覧下さい。
 筋ジストロフィー協会について、東北ブロック宮城大会の資料の佐藤隆雄東北地方本部長の挨拶文を見て、40年間の活動について認識を新たにしました。幾つかの特徴があります。障害者が、患者さんと呼ばれていた。病気で原因も治療法も解らないという難病であること。その処遇について、手探りで皆さんや先輩達が努力をして切り開いて行った。その一つの原点が宮城仙台にある。国立西多賀病院と拓桃療育センターの高橋孝文先生。そして、一人の患者が運動を起こし国立精神・神経センターができたこと。一つ一つのことを皆さん患者ご本人が関わって主体的に活動してきた。与えられた施策、与えられた福祉でなく、勝ち取ってきた福祉だということ、このことが非常に大きい。
 私が筋ジストロフィーの方と出会った最初の人は、今、ありのまま舎で、大変な状況で頑張っている山田富也さんではなかったかと思います。昭和59年頃で、当時、私は厚生省年金局企画課にいました。
 あの頃、年金制度の大改正を行っていた。障害基礎年金の導入された。障害基礎年金の導入を含む年金制度の大改正だった。本体の改正は余り良いことはなかった、保険料上げます。給付水準下げますということであった。障害者にとっては良い制度なので、早期改正を目指すには、障害者の方々の応援が必要であった。仙台で公聴会を開くことになり、そのスピーカーとして、七ヶ浜の山田富也さん宅にお願いに伺って話をしたのが、筋ジスの方の固有名詞としての出会いの最初だと思います。はれて障害基礎年金制度が出来て、それから私は直ぐに、北海道庁の福祉課長に就任しました。そこでも筋ジスの方との出会いがありました。香西智行さんで、香西研究所で車いすを作っている方でした。それから鹿野靖明さんで、日本で初めての公営ケア付住宅に入居された方です。残念ながら、昨年お亡くなりになりました。患者さんとして運動のアクテブな活動家としてこの道を拓いてこられた方です。
 それから、皆さんご存じのここにいる榊枝清吉さん。そうだ、山田富也さんより榊枝さんとの出会いが先でしたね。申し上げたいことは、患者さん一人一人がその道を切り拓いてきていること。それから今日の参加者名簿を見ましても、ボランティアの方々、医療関係の方々、病院関係の方々、ご家族の方々がこの席にいらっしゃいますが、皆さんが一体となってこの活動を進めていることが大きいと思います。
 今日お話するのは、支援費制度等を始めとする諸制度の問題なのですが、知事の仕事をしていると、行政全般について考えなければならない時間が必要ですので、福祉について考える時間は少なくなっていますが、知事として、大きな方向性の障害者福祉について考えて見たい。従って、皆さんも一人の筋ジスの患者さんということでなく、障害を持っている方の福祉、制度はどうあるべきなのかを一緒に考えていただきたいと思います。支援費制度のことをどうこう言う前に、幾つかのキーワードを述べます。
 第一に、人権があげられます。私は、昭和62年から平成元年まで、厚生省の障害福祉課長をしておりました。その時、一週間に一回土曜日に、障害者の人権問題懇談会という勝手にお話をする会をつくっていた。その時に障害者の人権問題ということを話したら、霞ヶ関でもやっと人権問題を取り上げる様になったかといわれましたが、私は、早くから障害者の問題は、人権問題だと思って来ました。それは、当たり前の様に聞こえるかもしれないけれど、今でもそうだが、障害者の問題は、哀れで、可哀相な、惨めな障害者に、何か良いことをやってあげることが、障害者福祉だと思っている人がいます。色々なところにいます。残念ながら、行政の中にもいます。そうでしょうか?人権の問題ということで問題提起するのは、実はそれに対するアンチ政治のつもりで、私は言っています。
 どういうことかと言うと、障害者の人権を守りましょうと言うことではない。発したいメッセージは、人権問題でこれはみんな持っています。健常者であっても。この問題が出て来るのは、差別されている人達だ。障害者も結果的には差別されている。人種問題、男女の関係から女性問題、それから、同性愛者、性同一性障害者等の人達に対する差別ということを考えると、人権問題というのは普遍性を持ちます。私の出発点は、人権と言うのは、誰にとっても、同じ質と量だと言うことだ。なぜこのようなことを言うかと申せば、障害福祉課長時代感じたことは、手の動かない人人権2割引、足の動かない人5割引、知的障害者は7割引、重症心身障害児は9割引の人権と言うことを。誰も声に出して言う人はいないが、そうとしか思えない様な対応であったということが、私の出発点だ。そうでなければ人権は皆んな100%なのだ。それから、人権というと生命権、財産権等でおどおどしい感じだが、そうではない解りやすくいうと幸せ追求権なのだ。最近の別の言葉で言えばプライイングです。収穫ジャガイモだ、どこかで話しましたが。人間という、人間の皮も外見も部体も色々違うでしょう障害を持っている人いますし、人間の皮をタマネギの様に剥いて行くと、最後に残るのは何か、私はプライイングだと思っている。誇りだと思います。自負ですね。これが剥いていったものは、形が若干違うかも知れないが、皆同じものだ。大事なことで、社会的になかなか生きに難い方、身体的に障害を持っている方、知的な障害を持っている方、大変な病気で悩んでいる方、みんなそれぞれプライドを持っています。家の母方のお祖母ちゃんは、それで死にました。丈夫で元気な人だったのですが、心臓をちょっと患って、入院した翌日だったか、翌々日だったかに死んでしまった。
 なぜかと言うと、赤ん坊の時以来、80年振りにおむつをされた。それが家のお祖母ちゃんにとってものすごいプライドを傷つけた。それを気にやんで死んだ。因果関係はそうでもないのかも知れないが、私にとってお祖母ちゃんは、おむつをされたあの屈辱によって死んだんだ。それが原因ではないのかも知れないが、人生の最後をあの屈辱と共に死んでしまったことは、とても悲しいなあと思った。人間の生命を守ることよりも、最と大事なことがある。それはプライドである。痴呆症の老人だからといって、老人ホームで、皆んな見ている所でおむつを替える行為、口に出して言えるのなら、辞めてくれと言いたかったでしょう。このようなことが、私の出発点で人権のキーワードであります。
 次のキーワードは、地域生活ということです。山田富也さんや、皆さんの先輩の方もそうですが、国立療養所という所で、なんとか医療を受けながら生活をすることが出来た。それは、生活なのだろうか、生きていると言うことなのだろうか、辛くて大変なのだが悩みがあったり、波風が立つかも知れないが、生活とは、こういう所にある。地域の中にある。街の行き交う人と、行き交いながら行く生活の中に、正に生きているということがある。ということが、多くの障害を持っている人達の中では、常識としてというか、運動として根付いて来ました。それぞれの発祥地が又、仙台だったりする訳ですが。そうすると、この問題に関わって来ている人達の考えるべき大きなことは、どうやって地域生活が普通であれば、難しい人に地域生活を保障することが出来るか?その為の支援の仕組みと手立てをどうするか?そういう中に私は支援費制度があり、これから言う介護保険制度もあると思っていますが、地域生活と言うことです。
 もう一つのキーワードは、極めて新しい概念だと思いますが、共生ということで共に生きることです。共に生きると言うことは、障害者も健常者もと言うことで使われることがありますが、最近我が宮城県で使っていますのは、例えば共生型グループホームといっています。ここで言う共生とは、色々な障害を持っている方、と言うよりは色々なヘルプ・支援を必要とする方、地域生活の中に於いて、縦割りの壁を設けず、共生型グループホームを10月から我が宮城県で発足させ様と思っている。それをイメージしてもらえば直ぐ解ります。グループホームに入っている方は、重症心身障害の方、比較的軽い障害の持っている方、痴呆症の方、精神障害の方をご一緒に生活して頂くことになります。今までこれが出来なかったのは、色々な壁がありました。まず、行政が縦割りになっていること。
 知的障害担当の人は、知的障害だけを見ている。そこでグループホームを造っても入って来る方は、知的障害の方だけ。これはこれで良いところもありますが、しかし、試しに共生をして見てはどうなのか?を始めたのが、我が宮城県でこれには、誕生の秘密があります。プロジェクトMだ。Mとは宮城県のMですが。宮城県の県庁という組織の中で、若手職員が、新しいプロジェクトを考えたらそれに、特別の予算をつけましょう、必要があれば特別な組織もつくりましょう。それには、条件があります。縦割りの組織を越えた発想で提案してほしいということで募集し、その中で当選したのが、この共生型グループホームで、県庁の若手職員が一生懸命考えたものであります。この4月より、宮城県に新しい組織が出来ました。地域生活支援室です。この地域生活支援室が、共生型グループホームが、企画・立案・実行する。加えて地域生活の支援ということで、色々な障害の枠を取り払って、色々な仕組みをつくって行こうことを今手がけています。
 ここまで、キーワードで、人権・地域生活・障害の種別を越えての共生ということについてお話しました。それから今日の流れとは違うかも知れませんが、福祉の産業化と言うことを考えています。今まで我々が関わり携わって来た福祉は何となく、哀れで、可哀相な人に何とか良いことをしてあげることとは、一寸と違います。それと供給者側は、特別な人でした。社会福祉法人という団体です。例えば、何とか建設株式会社というのはあまり福祉のことはやりませんよね。制度としては、組み込まれていないからです。一方考えて見ますと、今大変不景気です。経済活動が沈滞し、消費が延びない状況にありますが、唯一、延びているのが、介護・福祉の分野で、介護事業です。毎年5〜6%延びています。ということは、その仕事に携わる雇用が増えています。これは立派な産業です。元々が産業なのです。しかも、間違いなくこの分野は、伸びて行きます今後共、高齢化社会の中で、ヘルプを必要とする人達がどんどん増えて行きます。当然ながら、これはロボットにさせる訳には行きません。機械でやる訳には行かない分野で、それに携わる人がいます。必要です。ある程度の以上の技術と知的水準を持った人達です。そういう人達の職場を提供する分野であります。そうすると、福祉もサービス産業として、しかも、伸び行くサービス産業として、これをどういう風に仕組んで行くかということを考えなければなりません。
 で、大事なことは、私はプレイヤーだと思っている。プレイヤーとは、供給者側である。何とか株式会社で良いではありませんか。実はこれは、先鞭が切られました。介護保険のサービス提供、これは何とか株式会社で良いのです。何となく福祉をやる人達は、純粋でなければならない。金儲け等これっぱっちも考えてはいけない。むしろ裸になってやらなければならない。ということで、我々ある程度凝り固まって来ている所がありますけれども、本当にそうなのでしょうか。福祉を喰い物にしてきた社会福祉法人もないわけでもない。社会福祉法人だから悪くないということでもない。逆に、株式会社だから儲け一辺倒ということで悪いことをやるわけでもない。それはシステムの問題だ。変なことをやらせないようなシステムをつくれば良いことです。福祉は常に、ただでなければならないとの考えは、乗り越えられました。サービスの提供を受けるには、それに対する対価は払わなければなりません。その対価を払う仕組みを、支援費という仕組みでやるのか、介護保険という仕組みでやるのか、後は自分のお金でやるのか、ということ。これは色々ありますけれど、しかし、福祉はただということもあります。ただだから、安かろう、悪かろうということは、勿論もう乗り越えられています。そんなことも、キーワードとしてあって、そんな中で、これからのあり方を考えて行きたいと思います。
 支援費制度で、問題点が幾つかありますが、良い点があります。与えられる福祉から選ぶ福祉になった。選択ということが、正面から扱われました。で、支援費制度の前は何でしたか。措置制度、措置、行政側の観点から、この方は、福祉の措置が必要だということで、その人を行政側が見つけ出して来て、その人に対して行政側が、多くの場合直接サービスを提供しょうというのが、措置制度です。支援費制度とは、この方には、こういう提供が必要ですと行政が認定しますが、その後が違います。その後のサービスは、貴方が必要なものは買いに行って下さい。お店に行って買ってきて下さい。買った物の料金は、行政がお店の方に払います。という制度、これが支援費制度です。だから、今までは、宅配みたいなもので、注文もしていないのに、あんたこれいるでしょうと与えられて来た。というのを、障害者自身がお店に行って、買い求めて来る。その料金はお店の方に行政から支払う。これを支援費と称しています。与えられる福祉から、選ぶ、買い求める福祉へと変わった。これは自分で選ぶのだから良いことでしょう。問題は、お店に良い品がないということだ。品揃えも良く、品質の良い物が置いてあるお店もあるが、全然そういうことに構わっていないというお店もある。お店という単位は、市町村なのです。お店は市長村単位に出来ます。これは、良いところと悪いところがあります。福祉の最先端実施主体は、市町村だと決めたのは、平成5年のことです。福祉八法の改正ということで、実は、それの準備段階の時に、私は、障害福祉課長をしていまして、知的障害者の部分で反対したのは私なのです。知的障害者の部分は、町村まで権限が、下ろされていなかった。身体障害者が先に行き、高齢者が先に行ったのです。あの当時、検討されたのが、今から15年前のことですが、町村に渡したら知的障害者が、今より幸せになるとは思えない。ということで反対しました。
 ところが、これが今や町村も、知的障害者の福祉、精神障害者の福祉も実施主体として、支援費制度に入りました。時代が変わったのですが、私はまだ心配しています。
 お店の続きですが、支援費制度で、お店に買いに行きますが、お店の質・運営の仕方は市町村が経営者ですから、かなりの違いがあります。その違いは、町村の財政状態にもありますが、大きいのは、首長さんなり、その地域の福祉に対する熱意、権益権のことがあります。それで良いのでしょうか。それから、問題は支援費制度の財源は何ですか?税金です。所謂一般財源ということです。一般財源は、支援費だけに使われるものではありません。福祉だけに使われるものではありません。一般財源は、防衛費にも、公共事業にも使われるし、色々なものに使われます。国の予算ですので、国の段階で考えます。町村の段階でも、それぞれの町村のやる事業の中の一部として、支援費が組み入れられています。
 元々は、国の予算・町村の予算、この予算増えますか?全体として、増えて来ていますか?我が宮城県でも、毎年マイナスです。前年度比マイナス予算です。これから先、凄く良くなるでしょうか。むしろ悪い方を考えざるを得ない。そんな中で、高齢者に懸かるお金がどんどん増えています。現実問題として、支援費増えるでしょうか。それほど期待して良いでしょうか。全体として増えるという問題と、お店は個別の町村が経営している。3,200幾つの市町村がそれぞれお店を張っている。たまたま、理解のある町村に住んでいる障害者なら良いでしょうが、その反対だったらどうですか?ご不幸と、ここに生まれ育ったご不幸を嘆きつつならそれで良いですよ。単に公平ということだけでなく、皆同じ人ということでなく、少なくとも最低限のところは確保されなければならないと思っている。しかも、もう一つ大事なことは、継続ということだ、なぜそのことを言うかといえば、特にこれからは、地域生活を重い障害を持っても地域で生活を送って行こうという人がこれから増えます。増えなければならないと思っています。先程町村の理解によってお店の張り方が違うと申しました。大変幸せなことに、ある何とか町の町長さんが、大変熱心で地域生活も、支援費も一生懸命出して呉れた。よしそれではと、実は、今まで病院に入っていましたが、思い切って地域での生活をと、支援費制度を利用しながら、地域生活を始めました。継続ということが大事なのは、たまたま2年間だけと言う人はあまりいないと思います。それから、残りの人生をそうやって地域生活を続けて行こうという決心をどこかの時点でして生活を始めた。ところが、町村の財政状況が悪くなって、支援費が、がくんと下げられた。又、選挙で理解のある町長が負けました。秋田県鷹巣町の様に。そうすると、その様なことは、前の町長と違うので止めました。これはえらい迷惑ですよ。
 そのようなことのないよう、安定財源が必要なのです。その為にずーっと、前哨戦を張って、介護保険ということを、障害者福祉のところで、真剣に考えなければいけないのではないかと、今言っています。実は、昨年より、そのキャンペーンを私は外に向かって行っています。それから、私の仲間のお友達知事を誘って、障害者福祉は介護保険でという名前のシンポジウムを、昨年は、滋賀県大津市で行いました。今年は、今月末に長崎県島原市で行います。今度は、知事だけでなく、市長さん、町長さんにも来ていただきまして行います。障害者福祉を介護保険でと言うと、皆さんも、皆さんの仲間でも、えー・それ待って呉れと言う人がいることも、良く解っています。支援費止めて、全部介護保険の方に移るんだって、障害者の福祉サービスは。それは待ってくれ、だって介護保険だって、そんなに良い制度ではないてはないですか。それはその通りです。例えば、我々がデートする時に、ガイドヘルパーさんに付いて貰う。それが、介護保険から出るとは考えられない。そうすると、今、支援費制度の中で出ているものが、新しい介護保険の中では、切られてしまうのではないか。と言う心配、これも最もなことであります。で、私の話しているのは、全部介護保険に乗り換えてしまうのではなく、解りやすく言えば、良いどこ取りしようということです。介護ということでなく、基本的な生活の支援ということで、共通部分は介護保険で良いと思っている。それを越える部分は、それに入り難い部分は、相変わらず支援費で良い。二階建て、二層構造にやって行くことを前提に話をしています。逆に、今高齢者の為の介護保険の持っている問題点を、障害者が介護保険に入って来ることによって、替えて行くことが出来るのではないか。と期待しています。一番大きいのは何か。それは安定的な財源であります。それが保障されなければ、地域生活はおっかなくて出来ません。これに対し、身体障害の持っている人達の非常に先端的な部分の人達は反対です。少なくとも介護保険に入ることは乖離的です。この前この人達と直接お話しました。人端的と申しましたのは、今まで、障害者福祉を行政と闘いながら、支援費制度等勝ち取ってきたのです。それを介護保険にするっと替えられてしまうのでは、今までの自分達の運動は何だったのか。との思いもあるでしょう。自負もあるでしょう。しかし、長い目で見た場合本当にそれでやって行けるのかと心配しいます。もう一つ私の論点があります。今税金で支援費が支払われているでしょう。税金を払っている人達は、明日は、我が身と思って払っているでしょうか。何となく、あなた達のために、私たちの税金が使われているという、あの人、あいつらと言う人も中にはいますよ。その様な対立する関係として、支援費の税金を負担する人達と使う人達との構図がある。介護保険は違う、高齢者の介護保険が出来た時、町村のお祖母ちゃん方に聞いて見ると、私も何時お世話になるか解らないからね。と話しており、人ごとから自ごとに変わった。連帯ということです。私の持っている、介護保険は単なる安定的な財源を確保しょうと言うことだけでなくて、15年前からの私の夢ですが、障害者問題は、一握りの不幸な人達の為だけの問題ではない。明日は我が身だと言うことである。それは、介護保険の保険料を納める時に、何で納めるの障害者の為に。高齢者なら解るよ。間違いなく高齢者になるのだから。ふと考えて見ると、逆に保険料を払わされる時に、ああそうか、俺も障害になるかも知れない。俺の子供が障害になるかも知れない。その為にこれを払っているのだなと言うことを、むしろ教育する為の手段、介護保険と言う仕組みを通じながら、そうした意識をオール日本人に植え付けて行く為の仕組みと考えるとこれは、非常に前向きです。これはスエーデンでははやらないかも知れません。ドイツでは、違う介護保険は高齢者だけだ。何で日本だけが、日本には日本の事情があります。
 税金を払っている人達が、障害者の為の支援費を自分の為だと思ったことがないでしょう。多分。話している間に時間になってしまいました。この後、皆さんのご議論で、この問題を発展させていただくことを期待して、私のつまらない話を終わらせていただきます。
 ご清聴ありがとうございました。
当協会宮城県支部ホームページに、宮城県知事 浅野史郎様の講演内容全文を掲載させて頂くことに了解を得ております。また、掲載された文章の転載、使用に関しましてはお断わりさせて頂きます。
 


 
シンポジウム『活きがい対策の提言』

コーディネーター   駒場恒雄   戌年 魚座 生まれ
在宅 岩手県花巻市 岩手県支部支部長
パネリスト   近野孝喜   未年 射手座 生まれ
在宅 山形県山形市 山形県支部支部長
パネリスト   今井伸枝   酉年 天秤座 生まれ
在宅 福島県福島市 福島県副支部長
パネリスト   油井祐治   巳年 双子座 生まれ
国療西多賀病院入所(福島県福島市)
パネリスト   小野 圭   丑年 蟹座 生まれ
国療道川病院入所(秋田県山本郡八森町)
パネリスト   丸井美津子   戌年 乙女座 生まれ
国療青森病院入所(青森県上北郡下田町)

〔コーディネーター 駒場恒雄〕
 今日のテーマは、活きがい対策の提言ですが、生きがいと言う言葉は「生きていて良かった」という実感を持っている精神状態と説明されています。人それぞれの生き方、考え方があると思いますが、今私たちは、体の自由を失うという、辛く、苦しく、不安という生活を強いられているところであります。何の役にも立たないと「諦めること」や「諦めさせられている」という現実があるところであります。
 この貴重な体験と意見は、今悩んでいる患者やこれからも発生する患者さんの為に語ることに、大きな役割を持っているのではないでしょうか。私たちが生きている姿を、自分だけの問題とせずに、自分の体験を伝える役目を私たちに活きがいとして与えられているのではないでしょうか。
 これからパネリストの皆さんより、体験や意見を発表させていただきます。

山形県支部からの発表
パネリスト・山形県支部 支部長  近 野 孝 喜

 昨年は、東北ブロック山形県大会を、東根市東紅苑を貸切り、110名程の参加を得て開催させていただきました。
 活きがい対策のいきが活きの字を使われていますが、活動とか生活とか活性化などにも使われています。これらは、生きている人には不可欠のものと、私は解釈しています。
 私自身のことから、お話したいと思います。山形県支部の支部長拝命して、今年で6年になりますが、先日の支部総会でも、又、お前やれということでしたので、これから更に2年間支部長を務め、活動することになりました。今日は支部活動以外の、私のやっていることについて発表します。
シンポジウム  私は、週1回ボランティアとして、昨年4月NPO支援センター内に設立した、山形移動サポートセンターへ行っています。そしてバリアフリー推進チームのメンバーとして、中途失目された視覚障害の方、脊髄損傷の方、そして私との障害者3名と、バリアフリー相談所所長、山形市役所職員の方、普通の一般家庭の奥さんの方等が構成員になって、山形市の福祉のまちづくり、安心して住めるまちをどのように進めるか。昨年よりチームをつくり活動しています。山形県以外の先進地域を視察しようということで、昨年は、ここ仙台市内の萩の郷バリアフリー住宅と西多賀病院の筋ジス病棟と仙台メディアテークの3カ所を福祉研修で訪問。それから、秋田県の鷹巣町の福祉施設を見学。その時岩川町長が、スエーデンから福祉活動の校長さんや専門官を招き、2泊3日の鷹巣福祉塾を開催していました。その塾に参加させていただき大変有意義な研修でした。
 4月より支援費制度が始まりましたが、この制度に魂を入れるのは、患者自身であると思います。利用者の為の制度としてどうして行くか。これは行政側の責任だけでなく自己責任が問われる制度だと思いますので、今後どういう方向に持って行くのか良い制度にする為の論議が必要だと思います。
 最後に良い話をしたいと思います。山形県支部の会員に36歳の青年がいます。1か月位前の夜、突然私の家を訪ねてきました。家が近くなので時々来る方なのですが、この方は、西多賀病院西病棟に長い間入院していましたが、現在山形の福祉工場で働いています。
脊髄性ジストロフィーで、働いて10年位になりますが、「今まで、リハビリしても手の指先が余り良く動かなかったのが、最近このようにかすかに動く様になった。」とのことでした。こんなことがあるのだろうかと思い、翌朝、西多賀病院の木村院長先生に電話でお話しましたところ先生も「初耳だ、病院で診断したい。」とのことでしたので、受診することになりました。これは、当人の可能性への挑戦であり、執念・執着を持って可能性を求め生きてきた証ではなかったでしょうか。
 これで私の発表を終わります。有り難うございました。

私の生きがいと暮らし
パネリスト・福島県支部 副支部長  今 井 伸 枝

 福島県支部の今井です。どうぞ宜しくお願いします。副支部長という大役をいただいています。私はこれから,自分がこの病気に出会ってから,今までの生活して来たことをそのままお話させていただきます。病気に出会った時も病気だということがなかなか解らずにきました。筋ジストロフィー協会があることも解ったのがここ何年か前で,入会して3〜4年しかなりません。
 支部長の八代さんと同じ福島市内に住んでいます。家が近いということもあって,何も解らないままの副支部長をお引き受けしました。皆さんに色々教えて頂きたいと思っています。
 私は,生まれた時は何でもなくて,この体格でしたので健康優良児にも選ばれるくらいでした。中学校(13歳)に入って春,陸上競技の授業が4〜5月にありましたが,その時に走る事ができなくなりました。脚に力が入らなくなって,階段の昇り降りが大変になり,身体に変化が急に現れました。中学時代の思春期だったこと,両親が厳しかったことが重なって自分の身体に何か異常が起きていることを話すことができませんでした。また,体育の先生はご存知だったのかもしれませんが,一寸具合が悪いと「仮病じゃないの。」と言われたりして,体育の授業で落ち込んでしまいました。誰に相談をしていいのか解りませんでした。ただ,私は春の時期にだけ発病して,6月頃には治っていましたので,その後の10ヶ月は普通の生活が出来,春になると又発病するという状態でした。20歳を過ぎて,春からずっと病気が治らなくなってきたので,その時に初めて,福島市内の病院を何軒か回りましたが,診察の結果はでませんでした。その頃は,福島市内の病院の診断技術も余り進んでいなかった様で,「申し訳ないけど解らないよ。」と言われました。
 普通の高校に通い,その後東京の大学に進学しましたが,手や足は細くなり,足の動きは悪くなって来ましたがそれを補う様な生活をしていました。そして,26歳で結婚しました。当時は自分の身体に異常はあるものの病名がつかないことから,子供を産むことには,踏み切れませんでした。
 たまたま,テレビで精神的な理由で歩行が出来なくなった患者さんの治療をしている番組を見て,「私の病気はこれかもしれない。」と思い,直接東京の慶應病院に電話を入れ,外来を訪れました。カルテを作っていただき検査入院しました。その日の夜に,石原先生が東埼玉病院からいらしていて,石原先生にお会いすることができました。その時に「あなたの病気は筋ジストロフィーの三好型という病気ではないか。」と教えていただきました。検査の結果は,確かに三好型であることが解りました。
 病名がつくということは,こんなに何かほっとするものなのかと思いました。実は,身体が元の様に治ったらいいなあと思っていたのですが,最終的には,これは治らない病気だということをお聞きしましたし,治療法もないということもお聞きしました。病名がついて安心した事と同時に治らない病気だという重さも感じました。また,進行していくことも受け入れなくてはいけませんでした。その時に,「しばらくは,治療することが少ないでしょうから,機能の残っているうちに出産することですよ。また,子供への遺伝の心配は殆どないのでは。」と勧められて,その後,長女と長男を出産しましたが,お腹に子供を抱えるということは,とても負担で,その度に病気は進行しました。家族からは,「子供を増やすことよりも,子供はいらないのではないか。」と言われました。自分の病気が進行することも考えましたが,子供には兄弟がいれば将来のためにはどれだけ良いかとの思いから,二人目を出産することにしました。妊娠中には,子宮に異常があることがわかったり,出産時には子宮摘出をして大量出血に伴い大量の輸血を受けました。後日,その病院でのHIV感染の心配も報道されましたが,危険な時期より1ヶ月遅い出産でしたので,感染は免れていたことが分かりました。
 子供を授かったことは,本当に感謝でいっぱいです。子供を育てながら私自身を育ててもらっています。子供は一人では育てられない事を教わりました。上が女の子で,下が男の子です。男の子は活発で,私は追いかける事もできませんでしたし,子供の世話も行き届きませんでした。その頃,子供の文化活動をしている会に入会して,多くのお母さん方に手伝ってもらいながら子供を育てられたことは,とても恵まれていたと思っています。今でもその会の方々とは交流があります。自分の事しか考えていなかった自分を反省しました。子供を通して,人は人の中で育っていくのだということを実感しました。
 その会は子供の文化活動や,子育てのネットワーク作り,キャンプやお祭りなどの自主活動をしています。私自身も出来る事で参加しながら,約10年位役員をさせていただきました。会の運営委員長という役もいただきました。会を運営していくことや,まとめていくことはたいへんでした。
 家族は私の身体を心配してくれました。「何も今更そんな役につかなくても良いのではないか。」とか,「会員の中には病気ではない人もたくさんいるのだからそういう人にやってもらったら。」と主人からは何度も何度も言われました。その度,家族で話したり,私も「やりたいのだからやらせて。」と泣きながら訴えたりして,自分の我が儘だったのかもしれませんが続けて来ました。
 私自身は,音楽の道に進ませてもらいまして,大学では幼児の音楽教育が専門でしたから,卒業後は先生の紹介で幼稚園に勤務しました。当時は歩く事はできましたので,「歩く事ができれば採用しましょう。」と言っていただき8年間勤務させていただきました。園児たちと散歩をしたり遊ぶ事もできました。二人目の妊娠中に急に歩行も困難になって,病気も随分進行しましたので仕事を辞めることにしました。
 そして,退職後は,先程お話しましたように,自分の子供を育てながら子供の文化活動に関わる事ができ,自分の専門を生かすことができたことも幸せだと思っています。自宅ではピアノの教師もさせてもらったり,音楽を通じて,子供たちを育てていく活動に関われる事も私の喜びの一つです。文化活動,音楽活動,色々なことを通して,次代を担う子供たちの生き方について考えたり,お母さん同士で話をすることは私にとっての生きがいです。
 自分のことも大切ですが,同じくらい他人のことも大切に思うこと。ある時は,自分のことよりも他人のことを優先に考えることがあります。そんな積み重ねが私に生きがい,エネルギーを与えてくれるように思います。
 何か困っていることはないですかとの設問をいただきましたが,困っていると思えば困ったことですが,乗り越えるためのものと思えばまた,頑張る事ができそうです。身近に家族,親戚,兄弟,友達,そして,色々と便利な道具もたくさんあります。自家用車,パソコン,車椅子,杖,携帯電話,等等・・・使えるものは何でも使ってしまおう・・・という感じです。
 これからも病気の進行に伴って補わなければいけないことも増えていくかも知れませんが,その時その時考えながら進んで行こうと思っています。
 このような話であまりお役に立たないかもしれませんが,これからも皆さんに教えていただきながら生活をしていきたいとと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 この様な状況で,今いますので何かありましたらご指導ください。

筋ジス病棟・西多賀病院からの発表
パネリスト・国立療養所西多賀病院入所  油 井 祐 治

 ご紹介いただきました、福島県出身の油井祐治と申します。本日はお忙しい中この様な場を設けて頂き、いろいろと準備をしていただいた関係者の皆様、本日ご参加いただいた皆様には、大変感謝を致しております。
 これから、筋ジストロフィーという病気と、43年間共に過ごして来た私の人生についてお話をさせていただきますが、私がこれまで、どの様な心構えで病気と向き合い、又私の生きがいやこれからの目標等について、本日ご参加いただいた皆様へ少しでもお伝え出来ればと思っております。
 さて、私は近年日野原重明先生の著書『人生百年―私の工夫と、生き方上手』を拝読し大変感動致しました。これらの本は、話題にもなりましたので、ご存じの方も多いと思いますが、東京聖路加病院理事長の日野原先生の持論は、60歳は一つの区切り、即ち折り返しに過ぎないのだ。私も、今年で還暦を迎えました。今の私は日野原先生と同じように、ああ人生の折り返し点に立ったんだなと感じております。
 私のこれまでの人生を振り返りますと、実に様々なことが思い出されます。私は、17歳の時に難病を宣告されました。当時は、安保闘争の真っただ中で、自分なりに今後の生き方を模索いたしました。多感期の私にとって様々な不安を抱えながらも、与えられた病名は、私の使命と受け止め上手に病気と付き会うにはどうしたら良いものかと、いろいろと思い悩みました。難病の宣告は、同時に私自身への闘いの始まりでもありました。
 17歳といえば、自分の人生について深く考えるには、少し早い時期なのかも知れません。この当時の自分を振り返りますと、良く耐え忍んだものだと思う時があります。
 いろいろと悩んだ末、自分の人生にうっすらと進むべき道が見え始めますと、20代は夜学、そして仕事、勿論道楽にも明け暮れ、兎に角、何事にも一生懸命に取り組みました。苦しいことも沢山ありましたが、同じ位かそれ以上の楽しみを見つけることが出来たので、今振り返って見ますと一番楽しい時期、思い出として心に残る時期だったと思います。
 何時の時代の若者もそうであるように、その頃の私も、夢を沢山持ち、夢に向かって邁進して行く中では、沢山の挫折も経験もしました。しかし、挫けることなく何時も明るく前向きに進み続けることが出来たのは、元来の性格の外に自分の趣味を充分楽しむことが出来たと言うことも、大きかった様に思います。
シンポジウム  30代40代は社会人として多方面において充実した人生生活だったと思います。それは、仕事の面だけではなく、夫として、親としての役割を果たすことが出来たというで、今となっては、とても大きな財産として残りました。それも、これも人生最高の伴侶でもある妻の協力があってこその財産だと実感しております。その様に私の総てを理解して呉れる妻に対して、心の中では常に感謝をしておりますが、その言葉は仲々口に出せずにおります。
 二人の子宝にも恵まれお陰様で無事成人し元気に過ごしております。しかも昨年初孫にも恵まれました。当時と致しましては、筋ジストロフィーの解明が進んでおらず、当然遺伝するものだと聞かされておりましたので、私たち夫婦にとって子供をつくることはとても勇気のいる決断でした。その決断まで長い年月をかけ迷い苦しみましたが、今振り返ると、もう二度と味わうことの出来ない私たち夫婦にとって、最大の挑戦だった様に思います。
 こうした経験の積み重ねによって、仕事面にも幅が出来、なによりも自分にとって自身となり何事にも前向きに挑戦する姿勢を学ぶことが出来ました。
 私は難病と闘い、難病と上手に付き会って行きながら、その人生はとても、充実したもので、その生き方は間違っていなかったと実感しております。僭越ではございますが、この様な私の経験から若い方々に声を大にして申し上げたいことがあります。それは、若い時こそ苦労し、そして諦めずに努力するということです。若い時の苦労は、報われることを私は身を持って体験しました。数々の失敗も若さ故の特権なのです。結果を恐れずに努力し続けることは、それだけ人間を大きく成長させ、個々の発展をも遂げる力と成り得るのです。私は、私自身が自分にも他人にも誠実な態度でより多くの方と接する様に心がけ、何事にも前向きに努力をして参りました。
 しかしながら、年齢と共に病気の進行に従う筋力低下という壁が私の目の前に立ちはだかりました。長年難病と付き会っていたとはいえ、それは私にとってかなりの衝撃でした。私は、第一線から退き、一転在宅の生活という次なる挑戦が始まりました。他人に身の回りの世話をお願いしなければならないという現実は、私にとって屈辱の連続でした。私は、孤独感に押し潰ぶされそうになりながらも、私を支えて呉れる他の友の前では元気に振る舞いそれも又、私自身との心の格闘でもありました。在宅という生活というものは、一日中家の中で過ごす寂しさや世の中から一人取り残されそうな恐怖感から自分を見失いそうな不安感が常に付きまといます。その様な中でも、新しい出会や自分自身をじっくりと見つめ直す時間が得られたことで、これからの人生について深く考える様になりました。そして、在宅生活5年目にして西多賀病院を知りました。ようやく在宅生活にも慣れた頃、またもや転機が訪れました。足の骨折が原因で在宅での生活が困難な状況になったのです。
 私は、西多賀病院を受診し、初めて専門病棟へ入院を致しました。不安もありましたが、実際にお世話になって見ますと、病院スタッフの方々の心優しい対応、看護によりその心配も解消されました。次第に環境にも慣れ、又以前より療養生活している皆さんにも心優しく迎えて頂き、充実した入院5か月の入院生活でした。入院生活の中では、とまどいもありました。それは、一般病棟と大きく異なる部分だと思うのですが、専門病棟の中での常識という存在です。病棟内でしか通じない常識には未だに馴染むことが出来ません。それでも、西多賀病院での療養生活は好印象だった為、再度、在宅での生活をしていながらも病院での療養生活を思い出していました。
 バリアフリーでない自宅での療養生活は想像以上に厳しく、家族の支えにより何とか前向きの生活を送っていましたが、家内は持病の腰痛が悪化し、私はこれ以上家族に負担を掛けることは出来ないと判断しました。家内には子供の為にもまだまだ元気でいてほしいと思いますし、又、自分の生活を拡充出来る可能性、病院で私なりに出来ることがあるのではないかという気持ちが生まれ、次第にその気持ちが私の中で強くなって来ました。
 家族の反対はありましたが、何とか説得し、理解を得て、平成12年3月の入院より、現在に至っております。現在まで3年間の療養生活の中では、私なりに改革に取り組んで参りました。スタッフの皆様、患者の皆様と共に、調整を諮りながらより良い療養環境づくりの為に、改善すべきところは改善し、今なお没頭しているところです。医療・介護は後退することは、絶対に避けなければなりません。その為にも今後は患者同士のコミュニケーションだけでなく、独立行政法人化に向けての一致団結出来る様に、協会の皆さんとも力を携えて取り組んで行く必要があると思います。在宅に於いてもこの点は、共有出来ると思いますので、皆さんで情報を交換し、問題解決や取り組んで行ければと思っております。病院の自由化とは申せ、やはり専門病院に求められるものは、安心して生活出来る環境に尽きると思います。それを、お互いに自覚しあい、現在の西多賀病院のより発展出来る様、私も最大限邁進して行いきたいと思います。今後に置きましても皆様方の今まで以上のご支援ご協力をお願い申し上げ、私からのメッセージとさせて頂きます。どうも有り難うございました。

入院生活での生きがい対策への提言
パネリスト・国立療養所道川病院入所  小 野  圭

 はじめに私自身のことを少しお話したいと思います。私は3年前まで印刷会社に勤めておりました。養護学校を卒業する際、進路についてかなり悩みました。直接、道川病院へ入院することもできたのですが、どうしても健常者と同じような普通の暮らしというものを送りたいという強い気持ちを持っていたものですから、多少は不安もありましたが就職する路を選びました。
 その結果、私は働く喜びは何ものにも代え難いものだということを経験できました。
 私の場合は特に運も味方し、良かったと思います。といいますのは丁度、私が就職する年は国際障害者年の最中で社会全体がバリアフリー化を進めており、私の勤めた印刷会社も障害者が安心して働ける環境を整えた新社屋の完成をみました。しかも、この会社はリフト付きバスを用意してくれまして、毎日送迎をしていただきました。
 私は会社ではワープロで文字を入力する仕事をしていました。入社当初は入力するスピードが遅く誤字脱字も多かったり、読めない字があったりで大分苦労しました。そういった問題も時間とともに解決し、会社からは仕事を安心して任されるまでになりました。
 しかし、病気の進行とともに会社に通勤することが困難になり、そのあと退社を余儀なくされました。働いた期間は6年という短い間でしたが、環境にも恵まれ、周りの人の理解と協力も得ることができて、楽しく働くことができました。代わりに休日や自由な時間には思いっきり遊べることの充実感も知ることができました。
 病院にいてはできない貴重な経験を積むことができましたし、働くことは大変なことも多いですが気持ちに張りが出て責任感も芽生えました。何より社会の一員として生きている実感が沸いてきます。他人から認められることの大切さも知りました。
 私はもう一度そういうチャンスがあれば今でも働きたいという気持ちを持ち続けています。

 では主題の「入院生活での生きがい対策への提言」ということで私なりに述べてみたいと思います。
1. 生きがい……自分が夢中で打ち込めることを見つけることだと思います。
2. 環境が大切だと思います。今年の11月に道川病院は、40床増床の80床の新病棟が完成します。現在も急ピッチで工事がなされていて、日毎に完成が見られる様になって来ています。新病棟は現在の病棟よりも部屋のスペースが広くなるので、ベッドサイドの総てにインターネット回線がセットされ、パソコンに接続出来る環境が整えます。これまでは、作業室に個人のパソコンを5〜6台設置しインターネットにも接続していましたが、パソコンを使えたい人全員が使える訳ではありません。それに、午前中は清拭や検温がある為、午後の作業の僅かな時間しかパソコンと向き合うことが出来ません。しかも、土日は職員が手薄になる為に、管理所から離れた場所にある作業室に行くことが出来ません。これでは、気軽にパソコンを使うことも出来ない。やりたいことも集中して出来ないということが現状でした。
3. これからは、患者さんが頼めば一人一人が自分のパソコンを持てるので、気軽にパソコンを好きな時間にパソコンに向かうことが出来る。
インターネットの接続で世界が大きく広がる。例えば家族や恋人、友人とのメール交換、知らない人とのネット上での出会い、自分のホームページを作成し全世界に発信することもできます。パソコンは言葉が喋れなくても、耳や目が不自由でも私達のハンデイを補い可能性が一気に広がります。更には、一般会社の契約社員として働くことや、ベンチャー企業を立ち上げることも不可能ではないと思います。
4. パソコンは自分の趣味の域を越えて、やがてそれを仕事として取り組んでいくことが出来ればそれが生きがい、働きがいというものになる。
5. 病院に居ながらにして仕事をすることも可能だ。そのためには病院側の理解と協力が必要です。このこと関しては、病院側と意見交換の場をつくって、お互いの理解を深めて行ければと思います。
6. 次に、道川病院では、パソコン以外にも作業時間にビータッチ手芸や玉のれん、七宝焼き等様々な作業に取り組んでいます。ビータッチ手芸や玉のれんは単純作業で飽きてしまう。これは発表する場がないというのが大きな要因になっていると思います。
一般の人たちの目に触れるような場所で展示即売会を開くことが出来れば目的意識も持てますし、他人の評価も得て、気持ちに張りがでてくると思います。又、展示会をすることによって、一般の人達に私達がどんなことをしているのか知ってもらえる良いチャンスになると思います。これを機会に地域の人達との交流も出来て来ると思います。
7. 11月の新病院完成と同時に隣接地に地元岩城町が建設提供してくれる「道川社会訓練センター」(仮)が完成します。
この訓練センターは道川病院の周辺にある授産施設や老人施設の利用者さんと共有の施設ですが私達患者とその家族が宿泊することをも主とした施設であります。この施設の利用方法については、例えば病院行事各種レクリェーションに利用、授産施設のような小規模作業所として利用、ボランティアや地域の人たちと一緒に作業も出来ると思います。患者自治会としては大きな期待を寄せている。
8. 人的支援が必要。ボランティアが大きな役割を果たす。
現在、道川病院では、行事がある時には、秋田大学のボランティアサークルの皆さんに来て頂きお世話になっておりますが、普段の日は、そういったボランティアの皆様に来て頂く機会は、ほとんどありません。これは、私達患者が積極的な働きかけをしていないことが大きな要因になっていると思いますが、病院のある場所は、秋田市と本庄市の丁度中間に位置している為、距離的にどちらも15キロ位離れており、距離的な問題や交通の利便性もあり、なかなか気軽に病院に足を運んでいただけないということがあります。
なぜ人的支援が必要かと言えばまず身の回りのことについてですが、例えば私達がパソコンに向かうとすれば電源を入れることにはじまり、マウスを持たせて貰ったり或いは身の回りの物を取ってもらったりといろいろ手が掛かります。これら全てを看護師さん、保育士さんでもまだ難しいと思います。そういう時にボランティアのお力をお借り出来れば大変助かります。
9. ボランティアさんや地域の人たちとの交流を積極的にして、気軽に病院へ足を運んでもらうような環境をつくれれば良いと思っています。そうなれば、単に身の回りの世話だけでなく、病院外の世界と繋がりも持てますし、新たな出会いも生まれます。
交流を深め、私達をより知って貰い、病院も安心して送り出せて、私達が外出したい時に一緒に出掛け、旅行することも出来てくる。普段私達は、どうしても閉じこもりがちになります。そんな時に、ボランティアの手を借りて外の世界に飛び出して行くことで、生きている実感が湧いてくる。ボランティアや地域社会とのより密接な繋がりを持つことが今後の私達の大きな課題だ。
10. 一番大切なことは私達自身の意識改革です。
あらゆる設備や環境が整っても私達自身が積極的に行動しなければ意味がありません。
11. 周りの人に感謝の気持ちと思いやりを持つことも大切です。
ボランティアは勿論ですが、普段お世話をしてくれている看護師さんや保育士さんたちへ「ありがとう」という気持ちを伝えることが最も大事なことです。
12. 障害者だからといって、殻に閉じ籠もらずに、勇気を持って飛び出していくことが重要。その一歩を踏み出すことによって、世界が広がり、社会の一員として、生きている実感が湧き、生きがいを感じるより豊かな人生を送れると私は信じております。
 最後に、言葉足らずでお聞き苦しいことが多々あったと思いますが、これで私の発表を終わります。どうも有り難うございました。

筋ジス病棟・青森病院からの発表
パネリスト・国立療養所青森病院入所  丸井 美津子

 国立療養所青森病院の丸井美津子と申します。この様な場で発表するのは、初めてなの心臓がどきどきしています。
 平成14年12月1日に旧青森病院と旧岩木病院が統合、旧岩木病院の地に新病院として開院。病院の建物はほとんど岩木病院のまま、統合に併せて、統合に先立つ8ヶ月前に建物が一部新築。それが今私達の生活している新筋ジス病棟です。
 私はこの地で、入所歴31年になりますが、ほとんどの時間は、旧岩木病院の建物で過ごして来ました。他の患者も同様です。新築していただいたことについては、本当に感謝したと思います。でも、せっかく作って頂いたのですが、正直いいますと、旧岩木病院での建物の方が住み易すく、安心した空間があったと思います。今回のシンポジウムでは、新しい病棟が建設されたにも拘わらず、なぜ私達が今でもその様に思ってしまうのか、ということを建築というハード面から説明し、それによりテーマである活きがい対策について、触れたいと思います。また、これから私の述べることは、私自身の意見でなく患者同士で話し合ったことであることを、最初にお断りしておきます。
 最初に新病棟の紹介をします。新病棟は二階建てのL字型で、一階と二階に筋ジス病棟がひとつずつ、二個病棟。入り口からL字型になって、突き当たりまでは、長さが約70メートル位、中央にナースステーションがあります。L字周りの部分には、個室と風呂場があります。また、建物の一部には三階があり展望室がある。
 病棟を見学に来られた人からは、テレビや新聞で知ったとか、院内の他の病棟の患者さん、職員さんからは「ホテル並みですごくいいでしょう」とよく云われています。でも、長期に亘って医療と生活を共に過ごしている患者にとっては、「ホテル」のように綺麗な空間だけでは生活できません。ハンディを持ったものにとっては実用的な空間や環境が必要です。
 新しい病棟になって、職員の手を借りなければできない用事が増えました。人に頼んでやってもらうことは楽ですが、ものを頼むことはとても気を遣う。私達は、自分の将来がどうなって行くのかを良く知っています。だから、少しでも動く力が残っているうちは、それらを維持しようと努力しています。なるべく、人の手を借りない様にした生活をしています。自分で出来ることは、自分でする様にしています。新しい建物は結果的に私たちの残された力を奪ってしまっているのです。

■新病棟について
 それで、私がこれから新病棟について、早急に改善しなければ、生活に支障を来すので、改良してもらったこと、今使っていて不便に思っていること、良かった箇所の3点について、話して行きたいと思います。
【1】 早急に改良してもらった箇所について
改良の箇所 内      容  
1.ベッド周りのカーテン ベッド全体を覆い隠し、廊下から見えないように改良した。 プライバシーの問題
2.トイレのナースコール 手の届く位置に直した。紐を引く力が無く利用できないものを改良した。 ライフライン
3.トイレからナースステーションへの通報 トイレからの通報装置を新たに設置。しかし、各個室に無くトイレに一箇所のため不便。“大声で呼ぶのは恥ずかしい”。  
4.ナースコールのコードの長さ 短かったので長いものに改良。  
5.電話台の高さ 取り替えた。  
6.食堂の照明 明るい蛍光灯に取替え、新聞や本が読めるようになった。  

 以上のことは、私達が日常生活を送るために、基本的なことがらだと思います。プライバシーの問題、また、ナースコールについては患者にとっては大事な命です。こういった生活上の必要不可欠な要素が見落とされていたことは、とても残念でした。勿論、旧病棟ではクリアされていたことですが、それは私達が少しでも良いから自分の力で最後までやれたいことを、少しずつ設備を改築してもらったからです。
 新築にあたり、東北厚生局の方に病気の理解、利用者との対話がほしかった。対話するということは、100%私達の要望を聞いて欲しいということではありません。
 例え似たような神経筋の病気であっても、病気の型によって、各障害によって出来ること、出来ないことはバラバラであり、障害をひとまとめに考えることは出来ない。そのことを理解して欲しかったと思います。まずは私たちの生活を見て欲しかった。

【2】 不便と思っている箇所と自力で出来なくなった箇所
不便に思っている箇所 内      容
1.絨毯の床 絨毯は、車イスの車輪に対する抵抗が強く手動車イスで走るのが困難になった。
足音も無く突然にベッドサイドや部屋に人が来ることの不安。
2.トイレの位置 病棟の入り口と奥の二箇所のため看護力が二分されている。病棟の端にあり、ナースステーションから一番遠い位置。
転倒や起立が困難なときナースコールでも呼べない。すぐに気付いてもらえないという不安がある。
3.浴室の設備 座位の姿勢のまま入るリフトバス一台。寝たまま入るエレベートバス一台。
病気の進行で座位をとれない患者が多くなってきているから、エレベートバス二台にしてもらった方が良かった。
4.食堂が狭い 40人の患者のうち半分しか入らない。
5.患者の交流する場所が無い 患者相互の意見交換ができる場所が無い。
6.面会室が無い  
7.冷暖房等の温度調節 温度調節は病棟で出来ない。
8.窓のカーテンの開閉 窓の位置が高く、出窓のため自力で出来ない。
9.スイッチの操作 電気関係のスイッチの位置が高くて出来ない。
10.二階非常口 階段となっている。車イスの患者をどのようにするのか。

 しかも、床が絨毯になっていること、スイッチ類の高さが合わないこと、出窓になってカーテンが閉められないことをあげましたが、これにより明らかに私達の行動範囲は狭まりました。新しい建物の環境と、私達の身体機能が合っていないので、生活しにくいところがあります。
 また、トイレが病棟の端にあり、ナースステーションから一番遠い位置になっています。トイレは転倒の危険性の高い所です。起き上がることが出来ない私達がもし転倒し、ナースコールでも呼べない状態になったら、直ぐに気づいてもらえないではないかと不安も感じてしまいます。
 また、食堂が狭く、病棟に患者全体が集合出来るスペースがない為、患者相互の意見交換が出来難くなりました。呼吸器を装着している者が、話し合いに参加出来る為には、病棟内に全患者が集まる広間が欲しかったと思います。私達の病気は、身体的な能力が落ち出来ないことが多くなって来ています。でも精神的には、何時も積極的に社会と拘わっていきたいと思います。

 私達は、今回のテーマにある活きがいについては、こう思っています。
 「生きがい」について。何に対してもいいから「自分で出来ることは自分でする」という気持ちを持ち続けること、そしてその行為を少しでも積み重ねていくこと、それが「生きがい」に繋がるのではないかと思っています。
 身体的な能力が落ちて、出来ないことが多くなっています。でも精神的にはいつも積極的に社会と関わって生きたいと思います。
 この様な現状の中で建物自体の改造は出来ないのは、どうしょうもありません。不便さは不便としながら、どう工夫したら生活意欲を失わずに、毎日を快適に生きているという実感を覚え潤いのある生活を送れるか毎日挑戦しています。

 私は、不便な点や不安な点を述べて来ました。お断りしておきますが、とってつけた様な訳ではありませんが、本当に良い面もありました。そのことを最後に良かった箇所についてご紹介したいと思います。
【3】 良かった箇所
良かった箇所 内    容
1.個人別にインターネット、テレビアンテナの設備 大きな情報源を各個人が持てた。
2.外来者用のトイレ 面会者、ボランティアに不便を掛けなくなった。
3.(自動販売機設置の)三階の展望室 岩木山や八甲田山一望できる。
4.遊歩道などの環境整備 花や木や草木植えられている。

 余談ですが、この度、病院の改築の為、現在の作業療法棟が使えなくなりますが、空いていた病棟を改築して、作業療法棟が今月に完成する予定になっています。大きさは、前の半分だと思いますが、隣に病院の体育館があって、使用予定が入っていない時は、使える様になっています。これからも前向きに「生きがい」としての作業活動に取り組んでいこうと思います。
 最後に新病棟での入院生活と12月統合による新しいスタッフとの交流により、患者の日々も新鮮なイメージに変化しています。それによって今でも日常生活に戸惑いや不安を感じる時があります。今後は一日も早く新しい環境に慣れた生活が出来るよう、今以上に病院とのコミュニケーションを取りながら共に努力していけることを願っています。
 いろいろご協力をいただきました青森病院、厚生労働省、日筋協の皆様有り難うございました。ご清聴有り難うございました。

〔コーディネーター 駒場恒雄〕
 有り難うございました。以上5名のパネリストの方々から、発表や提言をして頂きました。ここで、パネリストの方で、付け加えたいことがありましたら、お願いします。最初に在宅2名のパネリストの方より、積極的に挑戦した生活をしている発表がありました。
 皆さんより、在宅に関しての質問、ご意見ありましたらお願いします。
〔宮城県支部 今野文也〕
シンポジウム  在宅2名の方にエールを送りたいと思います。一つは「自分にとって生きがい」とはなんでしょう。会場の皆さんも一寸考えて下さい。2〜3秒。つまり「自分にとっての生きがい」は、自分の幸せ、家族の幸せ、或いは、お金を得たい、地位を得たい、名誉を得たい等いろんなことがありますけれども、私は油井さんと同じ様に、去年還暦の60を越えて、7月26日で61歳になりました。そこで皆さんにエールを送りたいのと思います。会場の中にはご存じの方もいらっしゃるでしょうが、徳川家康の言葉の中に、「不自由を常と思えば不自由無し」。という言葉があります。これを引用して、「障害を常と思えば不自由無し」。それから、もう一つ関係する言葉で、「人知らずして憤らずわが道を行かん。」つまり、他人が自分の存在を一つも知らなくとも、自分は気取らずに自分の思ったことに進むと言うことです。英語で言いますと、「セルフ デターミ ネーション」この意味は、「自分で決定して行動する」。これが生きることにとって一番大事なことではないでしょうか。先程、浅野知事さんも話していましたが、『自尊心』であります。やはり障害者にとって一番大事なのは、「自分で決定して、その決定したことを実行出来る」。これほど素晴らしいことはない。健康も大事、お金も大事ですけれども、『自由』が一番大事だと思います。フランス革命にある自由、平等、友愛などいろいろありますが、やはり、在宅生活を送る上で、一番大事なのは、「自分で決定して、自分で行動することが出来る。」ことで、これが活きがい対策に繋がるものと思います。以上です。
〔コーディネーター 駒場恒雄〕
 他に在宅について、どなたか意見ありませんか。なければ、次に入所についての意見をお受けします。
 入所者の油井さんの発表で、在宅から入所へ、そして専門病院ならではの特異性のお話し、青森病院からは、苦情処理の取り組み等のお話ありましたが、もう少し具体的に話すことがあれば、補足説明をお願いします。
〔パネリスト 油井祐治〕
 私は、専門病棟に5年前初めてお世話になった。そのことに身を以て体験出来ましたが、一般病院では考えられない様な、当たり前が当たり前でないという現状が、今尚あるということ。中にいる患者さん方と話をしても、もうみんな諦めが先に立っている。なぜ改善に向けて懇談会等で話しをしないのかと聞くと、どうせ言ったって、という言葉が先に出てくる。それと、仕返しが怖い、と言うことが、みんなが共通して言っていることなのです。
 こういうことは一般病院では考えられないことだ。そんな中で私は生活していながら、現実にそういう体験もしているし、また、周りの人達のそういうものを目の当たりにして、それが、強く今尚印象に残っています。私一人で病院にいろいろと立ち向かっても、とても、職員の数にしても、入院患者にしても数多くいますので、とても太刀打ち出来ません。
 今も私は病院側にいろいろとぶつけているのが現状であるし、なかなかそれを提言しても、それを実行に移してもらう、改善して貰うという取り組みが、一向に見えない、それが現在の西多賀病院の現状であると私は思っています。その他にもいっぱいありますが、今の質問については、この程度にして置きます。
〔パネリスト 丸井美津子〕
 まずは、床が絨毯で大変なことだった。手動車いすの方が、ほとんど漕げないということで、車いすを替えるにしても、ハンディを持った人とか年齢制限で出来ない。人の手を借りながら移動する状態でした。看護婦さん達も大変だったと思います。電動車いすを申請しても簡単には来ません。昨年4月新病棟に来てから申請し、1年以上経過して、ようやく手に入れることが出来た人もいます。
 それから、トイレが病棟入り口と一番奥の方で、看護力が2分されたことは大変なことで、私達と看護婦さんとでどうしたら良いか、安心して入れるか検討中です。こんなことから、看護婦さん達も大変だと思います。お風呂場については、何も申し上げることはありません。
 食堂について、ナースステーションがカウンター式になっているので、そこで何人かは食事介助して貰っている人が居ます。あとの人は食堂の方で食べます。食事介助をして貰いながら食べる人も居ます。食堂の中が狭いので、車いすと車いすがぶつかります。そこで、最初に食べる人と後から食べる人に分けて食事をしています。
 それから、集まる場所がないことについては、作業療法棟があるので、話し合いとか行事がある時には、そちらを使っています。
 冷暖房の設定は病棟についていないとのことなので、1階〜2階の各部屋ではなくエリアについているとのこと。1階についていますが、各部屋によって、かなりの温度差があります。これはどうしょうもない。
 窓が高く、出窓になっていて、カーテンが閉められないことについては、カーテンを閉めないそのままにしている。電気のスイッチ位置高いので自分たちで出来ないので、夕方になると看護婦さんにお願いして入れて貰っている。
〔コーディネーター 駒場恒雄〕
 道川病院の小野さんは、働いてから入所され、人的支援が必要だと病院側への働きかけもしている様ですが、苦情処理は、どの様に対応しているのか。
〔パネリスト 小野 圭〕
 人的支援について、看護婦さんになかなか頼みづらい。そこでボランティアさんに入って貰ってやって貰えれば良いなあと言うことで書かせてもらいました。
 苦情処理に関して、自冶会が月1回開いている。その中に皆で意見を出し合って、それを病院側に要望している。その話し合いの中には、指導員さん、看護師長さんにも一緒に入って貰って、職員との話し合いということで、その中で要望ということで、困っていることや苦情に関しては、その時にお願いする様にしています。
〔コーディネーター 駒場恒雄〕
 有り難うございました。私共はそれぞれの在宅で行政や行政サービスに対する苦情。入所者には入所施設に於ける苦情の取り組みがあると思います。その苦情や不満を解決した時の喜び、それは掛け替えのない自分の活きがいになると思います。苦情の取り方も、西多賀病院の油井さんから発言のありました「出しても駄目だ。」という人が居ることを心配しています。苦情の取り方も、今インターネットもあるので、人工呼吸器使用の患者さんで書くことが困難な人も居るでしょうが、出来る人も居る訳ですから、インターネットを活用して、意見箱や『夢の扉』の活用を考える必要があると思います。
 黙っていることが他の人に迷惑や不便を与えることもあるのです。お互いに苦情や意見を出し、それを自分達の住む街や施設の改善に繋がることが重要であり、それが私達の活きがいと私は今日のシンポジウムで感じました。
 とにかく、苦情や問題提起というのは、受ける者にとつては嫌なものですが、それは病院や職員、そこの施設のレベルアップに繋がるものであると思います。お互いに共通の問題として、道のりとして理解する必要があるのではないでしょうか。これは、自分だけのためではなく、皆の為のものであるとの認識が必要と思います。そして利用者本人の視点に立った形の中で、こうした福祉についても考えて行く役割を私は帯びているのかなと、皆さんの発言から感じた次第です。
 最後に、パネリストの皆さんの発言をコーディネーターとして、纏めることをしなければなりませんが、この音楽をまとめとして聴いてください。(岡村孝子・曲“夢をあきらめないで”)。
 有り難うございました。以上で終わります。
掲載された写真、文章の無許諾での転載、使用に関しましてはお断わりさせて頂きます。